『宮崎駿の<世界>』がついに「完成」するのか? 切通理作の見た「君たちはどう生きるか」評

2023/09/05 12時00分公開

宮崎駿の<世界>~『君たちはどう生きるか』編 第1回

■初見時の「5つの疑問」に取り組みつつの再鑑賞で気づいたこと

宮崎駿の新作『君たちはどう生きるか』は「一切宣伝しない」という触れ込みで公開され、開始後1か月半たった現在、興収77億円、動員数が517万人を突破したという。

たとえば新宿では4館同時で上映され、私が2度目に鑑賞した、8月末の平日夕方からのTOHOシネマズの上映でも、2時間前ぐらいの予約で、もう席を選ぶ余地がそんなにないぐらい入っていた。

私は本レビューの前に、公開初日に鑑賞してレビュー動画を上げている。

全く前情報がない中での鑑賞およびレビューだったが、この時点で五点の事項を上げ、それをもう一回たしかめるための再鑑賞を約束している。

1. 劇場パンフレットが、公開初日には販売されておらず、公開中のどこかでの発売が劇場内で予告掲示されていた点。そこに作者宮崎駿の所感やメイキングなど、映画の副読本的な情報が織り込まれているのではないか。

2. 原作ではないが参考文献として挙げられている、映画と同名の書籍『君たちはどう生きるか』(1937年、吉野源三郎著)を主人公の少年・眞人が読み、涙する場面があるが、その涙がポツリと落ちた個所が、本の中のどこだったのか、たしかめてみたいという事。

3. 映画の冒頭近く、入院中であった眞人の母が火事で亡き人になるくだり。ぼおっと見ている分には戦災で病院が燃えたような印象を持っていたが、よくよく思い返してみると、それとは関係なく、火の粉が舞ってくるぐらいの距離である眞人の家の周辺では他の火災は起きていない。ならば火事はなぜ起きたか、示唆する描写があるのか、もう一回確かめてみたいという事。

4. 眞人の父の再婚相手で、亡母ヒサコの妹であり、また眞人からはヒサコそっくりに見える「夏子」との緊張関係が本作では重要なものとして描かれる。上記の筆者によるレビュー動画に付けられた投稿の一つに、ヒサコは夏子に殺されたのではないかという指摘があった。三と関連して、そんなことを匂わせる箇所がわずかでもあったのかどうかの再確認。

5. 眞人が物語の大半の時間を過ごす疎開先の屋敷では、眞人が東京からやって来る時、既に夏子が女中を指揮して切り盛りしていた事がうかがえる。屋敷の裏にある不思議な塔には近寄ってはならないと眞人に注意する夏子だが、後に夏子自ら、屋敷を出奔し、異界へとつながるその塔の中に消えていってしまう。また夏子には、眞人にとって異界からのメッセンジャー的存在である「アオサギ」を、目視出来ない距離から弓を以て射ろうとするという場面もある。到底、平凡な主婦の出来ることとは思えない。この夏子の、映画の中すべての言動で、見落としたものはないか、あらためて確認したい。

4. と5. は関連しているから、一つにまとめられるという考え方もあろう。

1. の劇場パンフレットが発売されるのを機に、もう一回鑑賞したいと思った次第である。


◇眞人の現実は<友達の居ない世界>

まず劇場パンフレットの中身についてだが、期待した宮崎駿の作品内容に触れた所感やメイキングについては、ほぼ何もなかったと言ってよい。

唯一、「長編企画覚書」なる宮崎駿の文章が掲載されているが、これを書いた時点で作りたい映画の内容は定まっておらず、老骨に鞭打ってもやらねばという気持ちと、長編は無理かもしれないという気持ちとの間の逡巡が記されている。

つまり本稿にとってパンフレットの存在は、筆者の私が映画を再見するタイミングをはかるきっかけになったという意味を上回るものではなかった。

このタイミングに合わせて、吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』を読み直した。私は大学時代と、社会人になってから、二度この本を読んでいる。だが最後に読んだのは二十年以上前で、だいたいの筋や、主人公のコペル君が親戚の「叔父さん」から教えられたことのいくつかは覚えているが、完ぺきに内容をそらんじることが出来るわけではない。

もちろん、宮崎駿の同名映画の存在を意識したうえで読むのは初めてだ。

本を読んだ後で映画を再鑑賞し、眞人が涙した個所がどこなのかはわかった。

コペル君がある理由で親しい三人の友達を裏切ってしまい、そのことを気に病んで二週間も学校を休んで臥せってしまうのだが、そうした重たい展開が晴れるかのように、当の友達三人が家に見舞いにきてくれる。それを知ったコペル君が一も二もなく、玄関に向かって駆け出していく……というくだりである。

ではここで眞人が涙した理由は何か。

それを考察するには、この時点の眞人の状況を考える必要がある。

この時点の眞人もまた、同じ学校の生徒との間で起きたトラブルがもとで、家に臥せっていた。

吉野版のコペル君は、所謂「後輩にヤキを入れてやる」的な先輩男子の前で身がすくんでしまい、殴られる親友たちを助けることも、そこに連座することもなく、結果的に見捨ててしまったというショックで寝込んでいた。

つまりコペル君は直接暴力を振るわれてはおらず、暴力の前で身がすくんでしまい、友達を裏切ったという心理的ショックで臥せってしまったのである。

宮崎版の眞人は転校してきたそばから同級生に目を付けられ、帰宅途中でケンカになり、ボロボロになった姿で帰路に着くが、途中で自らの側頭部に拾った石を打ちつけ、よりひどいけがを自ら負う。

直接的な被害と、間接的な心の傷という違いはあれど、いずれも、学校社会の中で理不尽な暴力にさらされるという点は共通している。

では、その後の顛末はどうか。

吉野版ではコペル君が臥せっている間、殴られた友達の親が学校に抗議し、殴った先輩男子たちは停学になっていたことを後から知らされる。そんな騒動もあって、コペル君が気にしているほどは、親友たちは彼の裏切りに関して意に介していなかったらしいこともわかり、彼らの友情は元に戻る。

宮崎版では眞人の自らつけた頭の傷を見た彼の父が、転校生である息子への暴力の結果と認識して激高し、学校に抗議する。同時に高額な寄付を学校に施し、眞人にはもうあんな学校には行かなくていいと言う。どうせ勤労奉仕でろくな勉強もできないんだから……と。

「勤労奉仕」とは、この時代、多くの場合、生徒たちに武器の製造を手伝わせるという事を含む。眞人の父は軍事産業を営んでいる。そんな自分が寄付を施しているんだから、息子の労働奉仕は免除しろというのが父の理屈だろう。

頭に付けた傷について、眞人はあくまで父親や周囲の大人たちには「転んだ」とだけ説明していた。

だが転んだだけでそんな傷が出来るはずはない……と、大人たちが勝手に気を回して、問題を「おおごと」にしてくれたおかげで、眞人は学校に通うという身分から解放される。

眞人がそこまでの結果を意識していたのかはわからない。だが自ら付けた傷がどのような波及効果をもたらすのかは、ある程度理解した上での行動であったことは間違いない。眞人自身は、自らの行動を後に「悪意」であったと語っている。

眞人は少年の年齢にして、自分の立場を利用して都合の良い結果を引き出す頭の良さを持っていたのである。それはある部分、大人すら操れる能力だ。

しかしそれで良かったのだろうか。結果彼は、自分の狡知を自分一人のものとして抱えたまま、学校という集団に参加すること自体を免除されてしまった。

それはある意味、自由の獲得でもあるのかもしれないし、ひそやかな「悪意」の勝利だったのかもしれないが、その代わり、眞人は、時には喧嘩したり裏切ったり裏切られたりしながらも、ともに行動し笑い合うことも出来る「友達」が出来る可能性を失ってしまった。

自分と似たような立場に置かれながらも、一人の等身大の少年として、学校という場所で出来た友達に向き合おうとしたコペル君。その彼に友達の方から会いに来てくれたことの喜びが記述された箇所を読んだ眞人が感じたことはなんだろうか。

1つの物語として読んだ感情とあいまって「なぜそれが、自分には出来なかったのか」という悔恨も混じっていたのではないだろうか。

ましてや、吉野版は、眞人にとって亡き母が読んでほしいと残した本だ。そこに、母の願う少年の成長のあり方をも読み取ったとしたら、より「どうしてこう生きることが出来ないのか」……否「こう生きるにはどうしたらいいのか」と考えたのではないだろうか。

この直後、亡き母の妹・夏子の失踪事件が起きるが、夏子を探しに塔に入っていった以後の眞人は、危険にもまったくひるむことがない、英雄的とすらいえる行動をみせる。継母の夏子への複雑な思いを女中に指摘されてもなお、迷いは生じない。それは彼にとって、たとえ自分にとって都合のよいばかりではないからといって、失っていい存在などはないのだ……という決意のあらわれではなかっただろうか。

塔の中に入り込み様々な冒険をした後、塔の主である「大叔父」と出会う眞人だが、この大叔父が提示した、世界の支配主的なポジションを拒否して、それまでの現実に還ることを選択する。ここでも眞人は、叔父の問いかけには微塵も動揺していない。

穢れに満ちた現世で何が出来るのかという大叔父の問いに「友達を作ります」と言う眞人。

冒険を共にしたヒミ、あいこさん、アオサギの三者の事を、眞人はこの世界で出来た「友達」だと言う。

コペル君が友情を結び直した友達も三人だった。学校で友達を作ることは出来なかった眞人だが、塔を媒介した世界ではその実感を持つことが出来た。

否、塔の世界から帰還した眞人は、ひょっとしたら、自らの意志で復学した……という、映画には直接描かれていない展開があったとしても、おかしなことではない。

次号では、まず、宮崎版と吉野版を重ね合わせることで見えてくる考察の続きを行う。そして、他の影響関係も射程に入れつつ、初見時に生じた五つの疑問の残りにも目を凝らしていきたい。


*この連載は、メールマガジン「切通理作の『映画の友よ』」に掲載されています。続きに興味を持ってくださった方は、以下よりご購読ください。

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