生活保護受給者の家計簿.2
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どうもこんにちは。
世隅豊墨(よすみとよすみ)です。
マイノートトップページの新着記事に自分の記事のサムネイルが出て、こうして定期的に更新していると新着記事欄に自分の記事がズラーっと並びそうだな恥ずかしいな、と思いつつそこはブログ運営元が考えることなので僕は僕で自分にできることだけをします。なんせ「自分ノート」ですから。
では家計簿の方を進めさせていただきます。
・太極拳教室参加費(趣味・娯楽)¥1,000
毎月2回近所の施設で太極拳教室があってまあ行かない月があったりなかったりしてその月の1回目に行けてなかったので、というかその日休むつもりで教室運営の関係者宛てに「今日は休みます」と連絡をしたのですが最近僕は自分の都合を優先させ過ぎてたまには自分以外の他人との交流をしなければ(何だか上から目線ですよね)、宗教的な言い草というかまあ特定の新興宗教団体や政治団体に所属しておらず独学で仏教なり神道なりをフィールドワーク的に神社に行ったり禅寺で座禅を組んだりして学んでいますが、まあなんというか、陰陽道?陰の時があれば陽の時もある。だからこそ最近の僕は自分の都合の良いふうに物事が進んだというかていうか生活保護受給者、独り身の特権で自分の自由に使える時間があるので(こうして「生活保護受給者」なり「独り身」という言葉を使うことでその言葉に体が順応していって益々社会復帰から遠ざかって、生涯未婚で彼女もできず独居で終焉する、みたいになるとか心配になりますがはっきりと言葉にしないと伝わりませんよね(何言うてんやろ))その分の揺り戻しとして今度は自分の都合の悪い時間が来るのではないか。だからこそ自分(「自分」ばかりで失礼します。といっても、ブログは「自分を語るもの」だと僕は思っていますからこのスタイルで続けます))以外の他人と関わって自分をなくすというか自分の思い通りにならない状況に身を浸すというか(といってもこのように考えていること自体、状況を自分でコントロールしようとしているから、結局のところ自分の都合の悪い状況に身を浸すことはかないません)。まあ要するに太極拳教室に行ってきました。参加費1,000円。太極拳の先生に足踏みの施術を受けました。
こんな感じで自分の思ったことを長々と書く。ほぼ自分語りで自分に向けてでしか書いていません。「だったらなんでブログに書いているんだよ。自分で手書きでノートに書いて自己満足で書けばいいじゃないか」と言われるものなら、その通りです。でも僕は人に見られる可能性のある場で自分の思いを書くことの緊張感というか承認欲求も含まれますが、やはり誰かに僕の存在を、でも僕自身という固有名を持った存在そのものではなく、文章という体で「存在を押し付ける形」で、何言っているのか自分でも分かりませんがどこかにひっそりとたたずむ掲示板にこっそり張られたポスターのような存在として気付く人に気付いてもらえたら、なんて思いながら書いています。
では続きます。
・最中(もなか)(食料、し好品、和菓子屋、和菓子)¥320
近所の和菓子屋に行きました。お茶菓子にと思って買ったのですがこの日は太極拳教室が終わった後に自転車で縦横無尽に街中を駆け巡っていまして帰ってみたら夕方で、夕方になってからお茶を飲むというのはお茶に含まれるカフェインの影響で夜眠れなくなる恐れがある、だから遅い時間にはお茶を飲まないでも自転車で長い距離を漕いで移動したから体が疲れていてそしたら脳みそも疲れている。だから、甘いものが食べたくなったのでお茶を飲まずとも本当は夜に甘いものを口にするのは避けたいのですが脂肪に置き換わっても僕は日々運動して燃焼させやすい体を維持している(今のところは)ので、つい最中を2つ食べ上げちゃいました。美味しかったですこしあんとつぶあん一つずつ。
・八百屋(生鮮品、野菜・果物、じゃがいも、さつまいも、バナナ、柿、リンゴ)\1,222
近所の八百屋で野菜と果物を買いました。前回の記事とは別の八百屋さんです。街中の商店街の中にある、その商店街はレンガ模様の石畳でおしゃれなスタイルの場所で、営業していた八百屋さんの入り口でじゃがいもとさつまいもの詰め放題をやっていたので買い物しました。僕は昨今の米不足、まあ米不足と言っても一時的なものですしでもゆくゆくは自分で稲作をするとまでは言いませんが自給自足的に食べ物を食べられる環境というかその環境を構築する術は身に着けたい。でも今は生活保護受給者で「働けばいいではないか」と言われるものなら、もうそれは、聞き飽きた。発達障害者特有の、というか発達障害者にもひとそれぞれ違いがあって一概にこれとは言えませんが人間関係の暗黙の了解が分からなかったり社会性がなかったりで要するに「一人だけ宇宙人がいる」てな感じで人間界に宇宙人が放り込まれると好事家にはたまらないでしょうが、好事家と言ってもその宇宙人を分析の対象にするだけで別に僕に対して優しくしてくれることもなく、というか「優しくしてくれることを前提にしている」こともおこがましい考え方ですね。まあ飛躍した言い方ですがというか僕の勝手な偏見でのたまうことなのですが「人間関係クラッシャー」みたいになるので、今は生活保護を受給して自分の生活に専念することに時間をかけたいと思います。話は戻りますが米不足だからと言って米を探すのではなく、不足に駆られて条件反射的に米どこどこ?と右往左往するのは、というか僕は僕のためにしか食料を探す必要がないのでどうってことないですが「置き換え」ということで、米を主食としていた毎日だったけれど10月から行きつけの米屋で米が入荷すると店主に伺ったので、それまでいもを主食として生活をしたい。だからこそ、じゃがいもとさつまいもの詰め放題は嬉しかったので八百屋で買い物しました。
・弁当(ハンバーグ弁当、天丼)¥1,270
毎日芋を食べたりバナナを食べたりお猿さんのような食生活。でもたまには美味しいものも食べたい。弁当屋に行ってハンバーグ弁当と天丼を買いました。一人で食べる弁当に二つの箸が添えられていたのは何とも言えない気持ちになりますが、使わなかった箸は今度焼肉を焼くときにでも使いたいと思います。自分でも思うのですが一人で生活していると「一人で行動していることの恥ずかしさ」が徐々に薄くなってきて我ながら人間味のない生活を送っているのだなと自嘲気味に振り返りたくもなりますね。そこはいつか天使のような女性(妄想なので何でもいいです。たとえそんな女性がこの世に存在しなくとも)が空から降ってきてそこから僕が主人公たる物語が始まる、今は、その準備期間であるとヤケクソと少しばかりの期待と気持ち悪さを込めて、日々食べるためだけに生きるという楽しみも減ったくれもないというか食べることが楽しみだったらエコなのでは、と手のひらに拳をぶつけて「そうだ!」とジェスチャーしたものならその乾いた音で現実に引き戻されるのであれば僕はまあ今を生きているということなのでしょう。ハンバーグ弁当と天丼、うま味調味料マシマシ。最高でした。これだけの量の弁当をまだ食べたりないと感じるのは、うま味調味料の依存的反応かもしれません。まあ調味料だったり保存料だったりをあまり神経質に思わなくとも今こうしてなんだかんだ生きているのでいいじゃありませんか。「神経質」っていう言葉には「神」という言葉がありまして同じく「神経症」という言葉にも神様が宿っています。神社に行くと僕は何となく中央を歩いてしまいます。人がいるとなるべく近寄らないようにしているから、サッと人が通るであろう動線から逸れようとしてルートを変えるのですが、神社のしきたりとして「真ん中は神様が通る道」と呼ばれていて、そうか、僕は神様的なポジションなのか、と飛躍的な考えを導いたりするのですがどこかの本やら社会学者の人が言っていた逸話に、昔の障害者たる人々はお祭りの際にみこしに担ぎ込まれていた、今見たく忌避(これは極端な発言で差別的な意味合いがこもってしまいますが)されるような存在ではなく(まあ精神障害者は座敷牢ルートだったと思います)たとえ働く能力がなかったとしても地域の共同体が弱いものを守っていた、弱いものを守るからこそ地域の共同体が強くその場に存続できていたとか何とかで、まあ要するに障害者的なポジションの人は神様として扱われて、こうして生活保護受給という身分は人々の税金で担われている。ということは働けなくて税金で食べることは神社のお賽銭にお金を放り込まれることと同様で、またハレだのケだの分かりませんが、祭りというのは「これ以上私たちの領分に近寄らないでくださいますか。くわばらくわばら」と神様であろう社会不適合者をその祭りの時だけVIP待遇して(町人もろもろその地で社会的地位を獲得した「普通」と呼ばれている人たちによって)、「これだけのことをやりました。これだけあなたたち(社会不適合者)のために思いを尽くしました。ですので私たちの平穏たる生活を脅かさないでください」と、僕はどこかでまつりが開催されるたびにそう解釈するようになりました。もちろん、僕は祭りの中に身を投じてもやることがありません。知り合いはいますけど、人間関係を構築し続けられるほどの甲斐性がございません。話は戻りますが、要するに社会の外に出ている人々はもれなく社会不適合者で、だからこそ女性と親しくなったり所帯を持つことなくでもこうして生活保護受給という労働の免除にあやかれる。その分、社会との接点がなく、社会からいない者として、でも人としての「孤独であることの生存の危ぶまれ」、つまり生命の危機に瀕しているでも人と距離を狭めることができない人と近寄ることができない。だからこそこうして実態なき文章たる存在としてでしか人と関わることができない、人と接したいのに接することができない体。僕がこうして承認欲求を得るためにブログを書いていますが自分の行動に今現在に置いて勝手に、合点いきました。何言うてるんでしょうかね。弁当、美味しかったです。神経症たる僕がどっちつかずで物事の判断を先送りにする、棚上げする、優柔不断であることは、右にも行けない左にも行けない右にいる人左にいる人を避けようとして結局のところ中央を歩くしかなく、道路で言うと中央は車が走っている所ですからまあ、僕は車みたいなものなんでしょうね(なにいうてんねん)。というか「決断することができない病気」と神経症を定義づけるとしたら、どっちつかずの状態、どの可能性にも頭を巡らせて最終的に何も得ることができずの惨めな結果になるというのは「得られるかもしれない」という夢をたくさん持つことができる、まあアブナイ薬による恍惚感を何もせずともして得られるという面では神にも等しい感覚を味わえること、それすなわち神経症なのであれば、神経症であれ神経質であれ何であれ人々に近寄れない病的気質を持つことは夢を見続けられることだともいえるのではないでしょうか(よく分からん)。
もう疲れたので、端折っていきます。
・本屋(コミック)¥550
・お賽銭(地蔵)¥100
自転車を漕いでいたらグワッと乗用車が車道から歩道、そばにあったラーメン屋の駐車場に向かっていたようなのですが歩道を通っていた僕とその乗用車が一瞬のエンカウント。僕は瞬時に右手をパッと開いて乗用車を制止させようと(ハンドパワー、ってミスターマリックかいな)してその時に間一髪というか危なかったというか最悪の場合車にはねられて事故して大けがになっていたかもしれません。自転車から降りてしばらく歩いた先にお地蔵さんが祀ってあったので別に、信仰やらスピリチュアルを100%信じているわけでもありませんしでもそういった世界があったら、水木しげるさんの世界観というか妖怪さんがいてろくでもない妖怪さんがいるでしょうが中には良い妖怪もいると信じたい。僕自身社会的立場を持たずして生きているので幽霊的というか勝手に親近感を持っているので、そこにいた地蔵はたんなる石の彫り物でしょうが「お地蔵さんに守られていたんだなあ」と僕もこうしてプロではないですけれどアマチュアでもなくワナビーでもなく単なる名無しの物書きでありますから、そこに存在しないもの、でも言葉をもってしてお話をもってして「言葉という目に見えないものを創出する担い手」のひとりとして、お地蔵さんが僕に語りかけてくれただからこそ僕もそのお地蔵さんに報わねばと思いお賽銭箱に100円玉を入れました。まあこの100円も生活保護費からですけれど。社会不適合者神様からお地蔵さんへお金の受け渡しです。どうぞ、お受け取りくださいませ。なに言うてんねん。
またもや脱線しましたね。やれやれ。
・から揚げ屋(卵10個)¥250
このお店は第6次産業(食料の生産から製造、販売すべて)のお店でして鶏のから揚げ買わずに卵だけ買って変わったお客さんやなあ思われるかもしれませんが(自意識過剰ですね)、その時はお金がほぼほぼ財布になかったので唐揚げはまた今度買いに行きますね。
・お賽銭(神社)¥100
お地蔵さんに引き続きまたもやお賽銭です。大きな神社の境内くらいしか地方都市ですけれど自然が多い場所って僕の近所にないんですよ。ただ森林浴がしたかっただけです。その日は人がいっぱいいて(というかそもそも人が少ないことが多いので「いっぱい」と言ってもそれほどでもないのですが)僕は挨拶することが苦手なので会釈してその場を切り抜けました(人とすれ違う際に)。晴れた日の秋香る風を浴びた木々の温かさが身に染みました。
・みかん屋(早摘みみかん)¥380
計¥5,092
お金の使い過ぎですね。と言ってもほぼ食費なので、というか使いすぎるも使いすぎないも比較の問題で僕の比較するべき相手は「過去の自分」です。「たかが5,092円ですか。お安い質素な貧乏なお暮ししてますなぁ」言われるものなら、その通り。でも僕はお金の多寡じゃなくて今現在その場にあるもので、なるべくお金に頼らないというかその場その場の状況で何が自分を居心地良くさせるのかどう判断できるのかどう体が動くのか、という体験を貯蓄しているものなので、というかお金はあればあるだけ嬉しいですしその分生活が楽になるでしょうけれども、僕は一人の物語の作り手としてたとえ貧乏でもたとえもっと効率的で時間のかからなくて存しなくても済む方法があったとしても、自分の感覚の風合いに基づいた「自分なりの物語」を築くストーリテーラー(最近この言葉を覚えました)として生きて行けたらなあと思っていますから「他人がやっているから自分もやる」じゃあ遅すぎるんです。自分本位で体を動かすためには。でも社会的に見たら他人の行動をなぞっていたほうが時間も節約できますし「時間が節約できる」ということは、言葉が飛躍していますが「その分お金を得ることができる」ということにつながると思いますけれども。それじゃあ、僕じゃなくてもいいじゃないですかって、身体が言っているので(身体性身体性ばかり言うと胡散臭い神秘家になっちゃいますが)。まあこれくらいですかね。
このブログサービスがいつまで続くか分かりませんし明日「予算の関係上サービスを終了いたします」と来ても不思議ではないですしそのために書き上げた文章のバックアップを取らないとなあと思いつつもめんどくさいので後回しになりますが。
アフィリエイトの広告が出たりページを更新したり戻ったりするたんびに広告が出る。また、一応コンテンツの担い手の主たるものは運営元というのも分かりますが、コンテンツ自体は各々ブログの書き手が作っているので「じゃあ他のブログサービスがをあたってくれや」と運営元から突っ込まれたら、まあぐうの音も出ませんが(「そんなに文句あったらテレビ見なかったらええやないか」っていう芸能人の発言のごとく)ブログを書き始めるたびに広告が出るのは何だか、嫌です。
そういった余計なお節介もくそくらえ。的な感じでこの場を閉めさせていただきます。
おあとよろしく。ありがとうございました。
UnsplashのEmily Leが撮影した写真を使用。Thank you! Emily.