大きな転換期にあるラテンアメリカ
2026/03/16 08時30分公開
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高城未来研究所【Future Report】Vol.769(2026年3月13日)近況
今週は、コロンビアのカリにいます。
サルサの世界首都と呼ばれるこの街に降り立つと、空港から市内に向かう車の窓から、もう音楽が聞こえてきます。ラジオからではありません。
信号待ちの交差点で、音楽にあわせて踊っている人がいるのです。
気温は年間を通じて25度から30度。標高約1,000メートルのカウカ渓谷に位置し、東にはアンデスの西部山脈がそびえ、人口約250万人を擁するコロンビア第三の都市ですが、カリはボゴタやメデジンとはまったく異なる空気を持っています。
メデジンが「常春の都」としてデジタルノマドやスタートアップの聖地になり、カルタヘナが歴史と観光の街として世界中から旅行者を集める一方、カリはいまだに「コロンビアのコロンビア」とでも言うべき場所です。外国人向けに最適化されてなく、英語がほとんど通じません。
正直、治安も決して良いとは言えない街で、郊外にはゲリラが頻繁に出没。
今週、この街でもっとも話題になっているのは、サルサでも気候でもゲリラでもなく、政治と経済の話です。
先週3月8日に行われたコロンビアの議会選挙で、ペトロ大統領率いる与党「歴史的合意(Pacto Historico)」が上院で最大議席を獲得しました。
全103議席のおよそ4分の1を占めましたが、過半数には遠く及ばず、憲法改正を含む大型改革の実現には他党との連立が不可欠な状況です。
一方で、ウリベ元大統領が率いる右派「民主中心(Centro Democratico)」も議席を伸ばし、17議席を確保しました。野党側の大統領予備選ではパロマ・バレンシア上院議員が圧勝し、保守票の受け皿として急浮上しています。
ハベリアナ大学の経済学者ホルヘ・レストレポは、今回の選挙結果について「コロンビアはもはやポピュリズムと無縁ではいられなくなった」と指摘しています。
彼が言及したのは、ペトロ政権が打ち出した一連の政策です。
最低賃金の大幅引き上げ、ガソリン価格の引き下げ、残業手当の増額。短期的には国民に歓迎されますが、持続可能性には疑問符がつく、まさにポピュリズムの教科書のような施策です。
なかでも議論を呼んでいるのが、2026年の最低賃金23.7%引き上げです。ペトロ大統領が昨年末に大統領令で決定したこの措置により、最低賃金は月額200万ペソ(交通手当込みで約526ドル、約7万8千円)に跳ね上がりました。
これは過去数十年で最大の引き上げ幅であり、インフレ率5.1%の実に4倍以上の上昇率です。
ペトロは、これを単なる最低賃金ではなく「生活賃金(salario vital)」だと宣言しました。
しかし、この決定に対する経済界の反発は激しいものでした。コロンビアの主要経済シンクタンクFedesarrolloは、引き上げにより企業のコストカットのため最大60万人の正規雇用が失われる可能性を指摘し、バンコロンビアの試算では73万4千人の雇用喪失が予測されています。
コロンビアの労働者の約50%はすでにインフォーマルセクター(非正規経済)で働いており、この引き上げがさらなる非正規化を促進するという懸念どころか、ついに破綻への道を進み始めたと言う識者も少なくありません。
実際、国務院(Consejo de Estado)がこの大統領令の一時停止を命じるという異例の事態に発展しました。なぜなら、最低賃金が一国のGDPの一人当たり水準にほぼ匹敵する、世界的にも極めて異例な状態になるからです。
現在、5月31日の大統領選挙に向けて、コロンビアの政治は大きく揺れています。
ペトロ自身は憲法の規定により再選できませんが、後継候補のイバン・セペダ上院議員が世論調査でリードしています。
対抗馬としては、エルサルバドルのブケレ大統領を崇拝すると公言する極右弁護士アベラルド・デ・ラ・エスプリエジャ、そして昨日の予備選で躍進したバレンシアが控えています。
コロンビア政治を読むとき、隣国ベネズエラで起きたことを無視するわけにはいきません。
今年1月3日、トランプ大統領は、ベネズエラに軍事介入してマドゥーロ大統領を拘束しました。
これは21世紀のラテンアメリカにおける最大級の地政学的事件であり、コロンビアの政治力学にも直接的な影響を与えています。
ペトロ大統領は米国のベネズエラ攻撃を主権侵害として強く非難しましたが、トランプはペトロを「コカインを作って米国に売る病んだ男」と呼び、コロンビアへの軍事作戦の可能性すら示唆しました。
しかし先月にはペトロがホワイトハウスを訪問してトランプと会談し、コロンビア経由でベネズエラの天然ガスを輸出する構想などを協議しました。敵対と協調が目まぐるしく入れ替わるこの関係は、まさにトランプ外交の縮図です。
カリの街を歩いていると、ベネズエラからの移民の存在を至るところで感じます。
信号待ちの車のフロントガラスを拭く若者、路上でアレパ(トウモロコシのパン)を売る女性など、コロンビア全体で推定300万人以上のベネズエラ人が暮らしており、カリにも3万から4万人がいると報告されています。
マドゥーロの拘束後、一部では帰国の動きも報じられていますが、多くのベネズエラ人は「まだ安全ではない」と判断してコロンビアに滞在しています。
こうした南米ならではの複雑な政治経済情勢の一方で、カリという都市自体は着実に変化しています。
2024年の殺人率は32年ぶりの低水準を記録し、かつて「世界で最も危険な都市トップ25」の常連だったこの街が、少しずつ安全になりつつある。
もちろん、まだまだ犯罪は多く、夜間の一人歩きには注意が必要ですが、個人的な体感でも10年前とは明らかに違います。
デジタルノマドのコミュニティも静かに成長しています。
メデジンのエルポブラドのような洗練されたコワーキング・エコシステムとは比較にならないものの、サンアントニオやグラナダ地区には小さなカフェやコワーキングスペースが増えて、生活費はメデジンの約85%。月1,500ドルもあれば快適に暮らせます。
そして何より、サルサを本気で学びたいなら、世界中にここ以上の場所はありません。
カレーニョスタイルと呼ばれるカリ独自のサルサは、目にも止まらない高速フットワークと複雑なターンが特徴で、他のどのサルサスタイルとも一線を画しています。
週末の夜になると、サルサの音がストリート全体を満たしています。バーやクラブのドアから溢れ出る音楽、路上で踊るカップル、ビールを片手に笑い合う若者たち。
最低賃金引き上げの行方も、大統領選の結果も、隣国の激動も、この瞬間だけは誰も気にしていないかのようです。
しかし、翌朝になれば現実が戻ってきます。
市場でフルーツを買えば、値段が少し上がっていることに気づき、カフェでコーヒーを頼めば、砂糖の値段が上がったとバリスタがぼやくかもしれません。
インフレ予測は2026年に3.6%とされていますが、最低賃金引き上げの影響で上振れする可能性が高い。中央銀行は金利の引き下げに慎重にならざるを得ず、経済成長率は2.6%にとどまる見通しです。
いま、ラテンアメリカという地域全体が、大きな転換期にあります。
ベネズエラへの米国の軍事介入、エルサルバドルのブケレ型強権政治の影響力拡大、メキシコとの関係悪化。その中でコロンビアは、左派ポピュリズムと右派ポピュリズムの間で揺れ動いています。
5月の大統領選は、この国が今後4年間どの方向に進むのかを決定する、極めて重要な選挙になるでしょう。
カリの丘の上から眺める夕暮れは、驚くほど美しい。
赤く染まる空の下、街のどこかからサルサのリズムが聞こえてくる。
この街は、どんな困難があっても踊ることをやめません。
その姿勢に、ラテンアメリカの底力を感じる今週です。
(これはメルマガ『高城未来研究所「Future Report」Vol.769』の冒頭部分です)
高城未来研究所「Future Report」
高城未来研究所は、近未来を読み解く総合研究所です。実際に海外を飛び回って現場を見てまわる僕を中心に、世界情勢や経済だけではなく、移住や海外就職のプロフェッショナルなど、多岐にわたる多くの研究員が、企業と個人を顧客に未来を個別にコンサルティングをしていきます。毎週お届けする「FutureReport」は、この研究所の定期レポートで、今後世界はどのように変わっていくのか、そして、何に気をつけ、何をしなくてはいけないのか、をマスでは発言できない私見と俯瞰的視座をあわせてお届けします。
高城剛 プロフィール
1964年葛飾柴又生まれ。日大芸術学部在学中に「東京国際ビデオビエンナーレ」グランプリ受賞後、メディアを超えて横断的に活動。 著書に『ヤバいぜっ! デジタル日本』(集英社)、『「ひきこもり国家」日本』(宝島社)、『オーガニック革命』(集英社)、『私の名前は高城剛。住所不定、職業不明。』(マガジンハウス)などがある。 自身も数多くのメディアに登場し、NTT、パナソニック、プレイステーション、ヴァージン・アトランティックなどの広告に出演。 総務省情報通信審議会専門委員など公職歴任。 2008年より、拠点を欧州へ移し活動。 現在、コミュニケーション戦略と次世代テクノロジーを専門に、創造産業全般にわたって活躍。ファッションTVシニア・クリエイティブ・ディレクターも務めている。 最新刊は『時代を生きる力』(マガジンハウス)を発売。
高城未来研究所「Future Report」編集部