黛灰が「鬱」を語る意味

2023/06/16 16時00分公開 / 2023/06/16 14時23分更新

先日引退をされた人気youtuber、黛灰(まゆずみ・かい)さんと、彼が引退される最後の月にコラボをさせていただく機会がありました。

【対談】精神科医の名越康文先生と「心が弱ったときのあるある」について話す【黛灰 / にじさんじ】

このとき、僕の中で久しぶりに「鬱」というものについて、新しい扉が開かれた感じがあったんです。それは一言「鬱を語ることの意味」なんですけど、たとえば、黛さんが対談の中で語っていた鬱っていうのは「黛灰にとっての鬱」なんですね。

「誰にでも共通する、普遍的な概念としての鬱」というのと、「黛灰の鬱」というのがあるとき、精神医学、あるいは科学的視点としては、どうしても前者に重きが置かれる傾向がありました。

後者については、ある程度の価値は認めるにしても、ある種「格下」の情報として扱われてきた。そういうあり方を、そろそろ乗り越えていかなきゃいけないんじゃないかな、ということを改めて今回、僕は感じました。

つまり、「○○にとっての鬱」を語ることこそが、実はものすごく意味がある。むしろ、普遍的な概念とか、診断基準としての「鬱」とは違う次元で、それを凌駕するほど価値があるんじゃないか、ということなんです。 

少なくとも今回、「黛灰にとっての鬱」が言語化されて提示された。そのことによって、これまでの杓子定規的な「鬱」の枠組みから取りこぼされていた方が、自分の抱えている「鬱」に気づくことができたんじゃないかと思う。あるいはこれまで持っていた「鬱」のイメージとはまったく違う、別の角度から映し出された「鬱」を感じ取れるようになったのではないか。

誤解のないように補足しておきますが、黛灰は決して、感覚だけで物を言うような人ではなくて、ちゃんと客観的な、(狭義の)科学的な情報をちゃんと勉強して、押さえている人なんです。でも、そういうことはあまり話さず、自分から見えたものを話す。自分の感覚が動いたことだけを話している。そして、相手の話を丹念に、集中力を持って聞くこともできる。

そういう人が、個人的に体験した鬱をシェアする。そのことで開かれた「間口の広さ」って、けっこうすごいものだな、と僕は感じたんですね。僕も、曲がりなりにも精神科医として仕事をして、本棚ひとつ分ぐらいの精神医学の本を読んできたんだけど、それでも開かなかった扉が今回初めて、開いたと感じた。



単なる知識とかじゃなくて、感覚がこう変わる、こういうことをやると楽になったという個人的な体験が語られることによって、何万人という人が救われる。これって言い換えると、これまでの精神医学がいかに、「感覚」というものを表現できてこなかったということでもあると思います。

たとえば統合失調症、かつての分裂病を表現する言葉として「世界没落体験」という表現があります。これはすごく感覚的な表現だと思う。その人が当たり前だと思っていたものが消え去っていく。これって非常に感覚的な表現だと思うんですけど、鬱について、教科書的に学ぶ概念には、そういう感覚的な表現が欠けていた。

たとえば、僕の個人的な鬱体験で思い出すのは、大学の授業のとき、先生がものすごく遠くに見えた、ということがあった。これって、まさに「感覚」レベルの異常だと思うんです。そういうふうに感覚を言語化し、共有することをもっとやっていいんだと思うんですね。

今日までこういう感覚的な表現がなされてこなかった背景には、やっぱり「医学は科学であり、客観的に、数値化しなければいけない」という、ある種の「呪い」があったんじゃないかと思います。さらにいえば、これは医学・科学の呪いという側面もあるんだけど、実は「日本人にかかった呪い」という側面もある。

そのことは、医学の教科書や参考書を見ると、よくわかるんです。たとえば解剖学の教科書を見ると、日本の教科書ってすごく無味乾燥なんです。写真が中心で、イラストがあったとしても非常に写実的なんですね。一方で、海外の解剖学の教科書って、一見リアルなんだけど、実はすごくデフォルメして描かれている。ある意味で「文学的」な表現なんです。

これって、ある種のトラウマだと思うんですね。明治維新以降、日本人的な主観性を抑圧し、西洋的な客観性を取り入れよという圧力が非常に強くかかった。そしていつの間にか日本人は、西洋人以上に、客観性の虜になってしまっているところがあるんじゃないか、ということです。



そういう意味で、「黛灰が語る鬱」は、そういう日本人の根底に根付いた「客観性の病」も打ち壊して、新しいフェイズに導いてくれる力を持っているように感じたんです。ちょっと詩的な言い方を許してもらえれば、客観性という檻から解き放たれた「鬱」が、一人ひとりの手に戻るような感じがしたんです。

鬱は一人ひとり違うし、鬱がその人の人生でどういう働きをするのかは、一人ひとり違う。でも一方で、一人ひとりの感覚経験というのは、同じような感覚を持つ人にとってすごく役に立つ(もちろんそれぞれ取捨選択する段階があってのことですが)。

鬱になったときの食事の味、人と出会ったときの気分。鬱になった初期や回復期、あるいは後遺症的な段階、前鬱状態など、さまざまな段階において、もっと感覚的な言葉で表現されてもよいと感じるんです。

 

名越康文メールマガジンより

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