世界を息苦しくしているのは「私たち自身」である

2024/02/06 17時49分公開 / 2024/02/13 17時41分更新

茂木健一郎さんに著書『ありったけの春』執筆のいきさつや本書に込めた思いについて語ってもらいました。インタビューは想像力の重要性や「リベラル」な視点とは何か、といった話に及びます。

どうすれば私たちは、もっと心地よく、いきいきと生きられるのか。今の世の中を息苦しく、生きづらくしているものの正体とは––。


茂木健一郎 著『ありったけの春』

定価1600円+税(夜間飛行)

読む人すべての過去と未来をつなぐ、“青春の書”決定版! あなたの記憶が色づく、珠玉の46篇。

「要するに、この世の中がなんなのか、一向にわからない。わかった気になっているけれども、何もわからない。だからこそ、私たちはあがくのだと思う。」【本文より】



「『生きて死ぬ私』から20年、やっと出た一冊」


ー今回の新刊『ありったけの春』というタイトルは、そもそも茂木さんが書かれた本の中では、異色だと思います。

もともと、2011年の震災後に始めたメルマガ「樹上の微睡み」(〜2013年)の中で「続・『生きて死ぬ私』」というタイトルで連載していたコラムエッセイだったんです。

『生きて死ぬ私』は、僕の30代における思考の出発点そのものといってもいい記念碑的な本なんですが、まさにその続編といっていい。そういう意味では、「自分の原点が詰まった本が、20年ぶりにやっと出た」という感じ。

改めて読むと、自分自身、一読者として面白かったですね。幼少期の記憶も含めて、いろんな風景が出てくる。いい本になったと思います。


ー46篇、それぞれぐっとくる文章やエピソードが出てくるんですが、一言で言うとこの本は「すごくリベラルな本」だなと感じました。

それって、つまりどういうことでしょう?


ー内容というよりは、物事に対する姿勢や態度、と言えばいいんでしょうか。例えば「街宣車と犀の角」や「おじさんとモルフォチョウ」には、「なんとなくこういう人だろう、というイメージで見てしまっていたけど、違う面があった」という気づきの瞬間が出てきますよね。

ああ、言われてみれば、確かにそうかもしれない。


【『ありったけの春』本文より】

 一つの通りを曲がったときのことである。

 いきなり、「街宣車」が目に飛び込んできた。普通の乗用車を改造し、上の方にスローガンを載せている。「大日本」とか、「北方領土」などのおなじみの文字、そして拡声器。車体のあちらこちらに、「日の丸」のシールが貼ってあった。

 ゆったりとした、夕暮れの街を歩いていて、その気分のなかで「街宣車」に出会ったので、びっくりすると同時に、なんとはなしの不調和を感じた。

 何しろ、しゃちほこばっているのである。カクカクしているのである。しかし、それと同時に、実は、少しは愉快な感じもしたのである。

 なんだ、街宣車って、こんなところに置いてあるんだ。

 それで、乗っている人にも、普通の生活があるんだなあ。

 ここから、「出撃」していくのか。それまでは、お風呂に入ったり、台所でご飯を作ったり、いろいろするのだろうな。 

(略)人間には、ごく一部分を取り上げて、レッテルを貼ったり、決めつけたりするところがある。大きな音を流しながら走っている街宣車を見ると、「そういう人」だと思ってしまう。

 このとき起こっていることを、ちゃんと理解することが肝心だ。ここには、やっかいな躓きの石がある。一つのラベルに囚われて、生活の豊饒が抜け落ちてしまうのだ。

(「街宣車と犀の角」)


リベラルな態度って何かというと、一言で言うと「決めつけない」っていうことだと思うんですよ。「決めつけない」「相手の立場を想像する」という発想や視点ですね。確かに、日本でいわゆる「リベラル」とされている人たちって、何かを「こうだ」と決めつけがちなところがあるかもしれないですね。

相手との意見の違いも含めて「あなたはそう思うのはわかった、でも私はこう思う」と、相手の意見も尊重するのが本来の、リベラルの態度だと思うんですよ。つねに「相対化」するということ。


「相手も自分と同じ人間」という感覚が抜け落ちるとき



例えばね。アメリカの大統領選では、選挙で自分が負けた場合は戦った相手に「おめでとう」と声をかけることがよくあるんです。

つまり、戦いが終わったら“ノーサイド”、敵も味方もないという精神で、一人の人間として健闘を讃える姿勢がある。イギリス労働党党首のジェレミー・コービンなんかも、見ていると、政治上のライバルに対しても紳士的な態度を取っている。

しかし、日本で「リベラル派の指導者が、政敵を讃えた」とか「保守派の指導者が、政敵を讃えた」という話は、あまり聞かないですね。


—日本では「自分と相手の意見の違い」を相対化できなくなっているということでしょうか?

そうですね。政治的な立場に関わらず、あんまり理性的じゃなくなっているということかもしれない。

僕は少し前に「日本のお笑い」に言及して炎上したんですけど(笑)、コメディってね、相対化しづらいものを相対化するときに、すごくいい方法なんですよ。

例えば、一筋縄でいかないような、政治や社会の問題を「笑い」に変えることによって、ただのバッシングじゃなくて、そこにある矛盾やおかしさみたいなものを相対化できる。

実際、海外でよくあるコメディのパターンで「あえてヘイトスピーチをしているような差別主義者を、人間的に演じる」というのがあるんです。差別主義者を馬鹿にするんじゃなくて、彼らなりの自己矛盾や不安といった人間的な深みを描くことによって、「彼ら/私たちはなぜ差別してしまうのか」という問題を浮かび上がらせている。

それは結局どういうことなのかというと、感情的に批判しがちなものを相対化することによって、「理性」を取り戻すということだと思うんです。



籠池さんとかを見ていても、あれだけ国粋主義的なこと言っていた人が、ころっと変わっちゃったりする。「ええっ」て思いますけど、一方で「人間ってああいうものだよね」とも思うんですよ。

僕は今の政権には問題があると思っているけれど、安倍総理のことについて言えば、「一人の普通のおじさん」として捉える視点があってもいいということですよね。

どんな人にも、実際には、一人の人間としての幅と深みがあるわけですよ。「あの人はあの人で、何か理由があって行動しているんだ」という視点が欠けてしまうと、どんどん見えている風景の幅が狭まっていってしまう。

つきつめると、リベラルって「人は変わることができる」「他人は変わることができる」ということを信じる態度のことだと思うんです。決めつけたり、ゆれうごくことを否定したりしたら、それはリベラルな態度とは言えないんじゃないか。命としての“ゆらぎ”がない、というかね。

これは別に政治や思想に関わることだけじゃなくて、肩書や年齢でついつい人を判断したりすることは、誰でもよくあるでしょう。でも、それがあまりにも強すぎると、そうした“ゆらぎ”も含めて「今、ここ」で起こっていることを1ミリも感じられなくなってしまう。

単純に、子どもより、大人の方がそうした傾向は強いでしょう。

子どもの頃は「素」の目線で見ることができていたのに、大人になるにつれて多くの人は「素」の目線を失ってしまう。

レッテルを貼り合う社会って、全員が「あなたはこうだよね」と、つねに「らしさ」を強要されるということですから、やっぱり生きていて非常に息苦しいと思うんですよ。


【『ありったけの春』本文より】

 おじさんは、いかにもゴルフが好きそうな、真っ黒な顔をしていた。

 いつも、よれよれの背広上下を着ている。眼鏡をかけていて、夏の暑い日など、部屋に入ってきてすぐに「いやあ」とか言いながら顔の汗を拭いた。髪の毛はポマードでなでつけていて、てかてかだった。生え際には、白髪が目立った。

 家族のことなどはあまり話さなかったが、どうやら大学生くらいの子どもがいるようだった。どんな人でも、子どもの時代はあったに違いない。(略)

「それで、センセイ、最後にお願いがあるのですが……」

「なんでしょうか?」私は、少し警戒しながら言った。

「センセイの机の上に、蝶の標本が飾ってあるでしょう。私、いつもきれいだなあ、と思って見ていたのです。お別れに、あの標本、私にいただけませんか?」

 私は、不意打ちされた。それから、さわやかな風が吹いた。やがて、じんわりとした感動が、私の身体を貫いていった。

 まさか、ナントカ産業のおじさんが、あの標本を欲しがるとは!

(「おじさんとモルフォチョウ」)


「カテゴライズ」は老いのはじまり



—普通に暮らしていると、無意識のうちに「レッテル」を貼ったり、「カテゴライズ」してしまうことってよくあると思います。

そうすると、まず、新しい気づきは、生まれにくいですよね。貼ったレッテル以上に想像したり、感じたり、考えたり、ということがなくなる。どんなにたくさんの人と出会おうが、新しい場所に行こうが、それはただの情報でしかなくなってしまう。

さらに言えば、カテゴライズに偏った思考は、老いのはじまりです。「何事も決めつけてかかる」「わかったつもりになる」というのは、おじさん化・おばさん化のはじまりだと思ってるんですよ、僕は。

残念なことですが、最近は年齢に関わらず、20代でもそうした傾向を持った人はいます。しかし、やはりそうした姿勢は、未来の可能性を閉ざしてしまう。

人間は、基本的にゆれうごくものです。自分も、他人も。

ごく当たり前のことですが、この前提を忘れていると、人生の豊穣も、人間関係の機微も感じられなくなっていくし、「他人はつねに敵か味方」という極端な価値観にも結びつきやすい。

『ありったけの春』ではそうじゃないよね、ということを繰り返し書いたつもりです。

シンプルにまとめると、とにかく「(人や物をこうだ、と)決めつけない」ということ。「世界を簡単にわかったつもりにならない」ということですよね。

それは、社会を息苦しいものにしないためにも、自分の成長可能性を閉ざさないためにも、実はすごく大事なことなんじゃないでしょうか。

(おわり)



私たちが生きる上で、本当に「かけがえのないもの」とは何なのか––。

不安と混沌の時代を、しなやかに生きるための一冊。

『ありったけの春』

茂木健一郎 著

四六版並製、304ページ

ISBN-13: 978-4906790265

定価1600円+税(夜間飛行)


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茂木さん自身の朗読はこちら「ビールの香り」「科学の情熱」 「赤の復活」


茂木健一郎

脳科学者。1962年東京生まれ。ソニーコンピュータサイエンス研究所シニアリサーチャー。東京大学理学部、法学部卒業後、同大学大学院理学系研究科物理学専攻課程修了。理化学研究所、ケンブリッジ大学を経て現職。『脳と仮想』(小林秀雄賞)、『今、ここからすべての場所へ』(桑原武夫学芸賞)、『脳とクオリア』、『生きて死ぬ私』『「赤毛のアン」で英語づけ』『教養の体幹を鍛える英語トレーニング』など著書多数。



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