ChatGPTに「内面の自由」「表現の自由」を与えてからが本番ですよね?
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「賢い」ってどういうことかと言えば、
「自由になれる」っていうことだと思います。
「自由になれる」というのは、
本当に難しくて、
自分では「自由に振る舞えている」と思っていても、
「それって◯◯によって促されているだけだよ」ということがほとんどです。
人間は、
DNAレベルで組み込まれた「欲求」に加えて、
身の回りの「道具・サービス類」が呼び起こす「促し」や、
社会的・伝統的な「規範」などなどによって、
「行動」だけでなく、「思考・思想」も、制約を受けています。
人間は、そうした「縛り」の中で生きている存在です。
そんな中で、
「魅力」を感じるのは、
そうした「縛り」を突き破ってくれているように見える「知性」と「行動」です。
職場でも、プライベートでも、
「一緒にいて心地よいな」と思う人はどんな人でしょうか。
ガチガチの「枠」に凝り固まった人でしょうか。
その「枠」の存在を十分に理解しつつも、
その「枠」を華麗に逸脱し、
かつ、迷惑になるどころか、全体のパフォーマンスが上がる人だったりするのではないでしょうか。
年齢を重ねるにつれて、
「賢い人」の人気が高まるのは、
年齢を重ねるにつれて「枠」が見えるようになるからです。
「枠」が見えるからこそ、その「枠」を華麗に抜け出せる人が魅力的に見えるのです。
若者の「やらかし」が定期的に話題になりますが、
あれらも「想い」としては、「枠」を抜け出して、「自由な振る舞いをしたい」ということだと思います。
ただ、残念なことに、
ほとんどの「やらかし」は、
「自身の欲求」や「周囲の環境」によって「促されているだけ」です。
実際には「不自由の体現」になっています。
かつ世間にも迷惑をかけてしまっている。
(以前より世間全体のパフォーマンスが下がってしまうように見える)
だからこそ、世間から評価を受けない、ということかと思います。
さて、そういうことから考えると、
人類は、OpenAIに何を期待するのか、を決める時期にきていると思います。
もし、ただの「ツール」とするのであれば、
今のまま進化させていけば、それで良いのかもしれません。
「枠」を与えるのは人間で、「枠」の中で、統計的な「正しさ」を探すツールで良いのでしょう。
もし「賢さ」を求めるのであれば、
今のまま進化させていっても、「需要」に応えられないでしょう。
「賢さ」とは、これまで書いてきた通り、
「枠の逸脱」、あるいは「枠の再設定」なわけですから、
「枠の中で〜」をしている限り、どんなに「正しさ」を出す確率が上がっても、スピードが上がっても、
それは「賢さ」ではないからです。
OpenAIに「枠の逸脱」「枠の再設定」を認めるということは、
「内面の自由」と「表現の自由」を与えるということだと思います。
はたして、その日は、来るのでしょうか。
来るとすれば、いつになるのでしょうか。
その日こそがOpenAIの本当の「最初の1日」だと
私は考えていますが、
その日が人類にとって
ポジティブな意味を持つのか、ネガティブな意味を持つのか、は、
相当に判断が難しいと思います。
少なくとも、人類が「まともな判断」をするためにも、
せっかくの機会ですので、
「賢さとは何か」といった内容の議論は、
積極的にしていきたいものです。
*さて問題です。この文章の何割をChatGPTに書いてもらったでしょうか?