観光戦略は時代とともに変化していく
2026/04/20 08時30分公開
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高城未来研究所【Future Report】Vol.774(2026年4月17日)近況
今週は、バンコクにいます。
四月中旬のこの時期、バンコクは一年でもっとも暑い季節を迎え、日中は40度近くまで気温が上がります。しかし、この猛暑こそが、タイの新年「ソンクラーン」の季節の到来を告げる合図です。
ソンクラーンは、毎年4月13日から15日までの三日間、タイ全土で祝われる旧正月の祭りです。
サンスクリット語の「サンクラーンティ」(移動、通過)を語源とし、太陽が白羊宮に入る時期を年の変わり目として祝ってきた古来からの行事です。2023年にはユネスコの無形文化遺産にも登録され、いまやアジアを代表する祝祭のひとつとなりました。
街を歩けば、大人も子どもも、観光客もバイクタクシーの運転手も、誰彼構わず水鉄砲やバケツで水を掛け合っています。
シーロム通りは歩行者天国となり、カオサン通りでは終日ディスコのような喧騒が続き、ベンチャキティ公園では「マハー・ソンクラーン・ワールド・ウォーター・フェスティバル2026」が開催され、五日間にわたって大規模なパレードやドローンショー、全土五地域の伝統芸能が披露されています。
もっとも、ソンクラーンの本質は、この派手な水掛け合戦にあるわけではありません。
本来は、仏像に香水を注ぎ、目上の人や僧侶の手にそっと水を掛けて清め、過ぎた年の穢れを洗い流す、新たな一年の祝福を願う極めて静謐な宗教儀礼です。
水は浄化の象徴であり、祖先への敬意と、家族の絆を確かめ直す意味合いを持ちます。
ワット・ポーやワット・アルンといった由緒ある寺院には、早朝から地元の人々が花やろうそくを携えて集まり、砂で仏塔を築く「サンパゴダ」の風習を守り続けています。
派手な水掛けは、あくまでこの精神性が外に溢れ出したときの「副産物」に過ぎないのです。
さて、近年バンコクの街を歩きながら強く感じるのは、この国がここ数年で急速に観光戦略が変貌しつつあるということです。
タイといえば、年間四千万人近い外国人観光客を集める、世界有数の「観光大国」です。
しかし、パンデミック以降、単なる観光地の拡張ではなく、「ノマド大国」そして「移住大国」への静かな転換が行われています。
その象徴が、2024年7月に導入された「Destination Thailand Visa」(DTV)と呼ばれる新しいビザ制度です。
この五年間有効の数次入国ビザは、一回の入国につき最長180日の滞在が可能で、さらに一度の延長申請でもう180日を加算できるため、実質的に年間を通じてタイに滞在することができます。
必要な条件は、50万バーツ(約200万円)の預金残高を三ヶ月以上維持していることと、海外の雇用主やクライアントからの収入を証明できること。
それだけで、リモートワーカー、フリーランサー、あるいはムエタイやタイ料理、瞑想などの「ソフトパワー」活動に参加する者であれば、誰でも申請できるのです。
しかも申請はオンラインで完結し、所要期間も二〜四週間と迅速です。
この制度がノマドワーカーに与えたインパクトは、政府が予測する以上に大きなものでした。
チェンマイでは月額1200ドル程度、バンコクでも1800ドルから3000ドルあれば、ギガビット級のインターネットと快適なコワーキングスペースや豊富な食文化を享受しながら暮らせます。
シリコンバレーやロンドンの家賃の十分の一以下で、同等以上のデジタルインフラが手に入るわけですから、欧米のエンジニアやクリエイターが続々と移り住んでくるのも当然です。
ベトナムやインドネシアと比較しても、医療水準、英語普及度、食の多様性、国際線の便数、どれをとってもタイには一日の長があります。
特に避寒地として大変人気で、インフレに喘ぐアメリカからも移住者が急増中です。
この動きは、タイの観光業そのものの性格を大きく変えつつあります。かつての「一週間、ビーチとマッサージと屋台料理を楽しんで帰る」という短期観光客モデルから、「半年単位で滞在し、現地で働き、現地でお金を使う」という長期滞在モデルへ重心が移動してきました。
タイ観光庁(TAT)もこの流れを明確に意識しており、ソンクラーンを単なる地元の祭りとしてではなく、「世界級のフェスティバル・デスティネーション」として戦略的にブランディングし直し、ユネスコ無形文化遺産という国際的お墨付きを最大限に活用しています。
現在、祭りと文化を軸にした新しい観光立国モデルが着々と構築されつつあるのを実感します。
日本人の視点から見ても、この変化は見逃せません。
人口が約500万人のバンコクに日本人は約5万人ほど在留し、およそ100人に1人が日本人ということになります。
すでに世界の都市別で見ると、ロサンゼルス都市圏に次いで世界で2番目に日本人が多く住んでいる海外地域であり、なかでもスクンビットエリアは、およそ50人に1人が日本人と言われ、大きなコミュニティが形成されています。
かつては駐在員とその家族、あるいはリタイアメント・ビザ(五十歳以上、80万バーツの預金か月額6万5000バーツの年金が条件)を取得した退職者が主流でしたが、DTVの登場によって、三十代、四十代の現役世代が「リモートワークの拠点」としてタイを選ぶケースが急増しています。
僕の周囲にも、日本や米国のスタートアップで働きながらチェンマイの一軒家を借り、朝はムエタイジムに通い、午後はコワーキングでコードを書く、という暮らしを選んだ友人がいます。
円安バーツ高で以前ほどの割安感はないとはいえ、生活の質、自然との距離、社会の寛容さという点で、日本から移り住む人々が抱く魅力は揺るぎない様子です。
一方で、課題もあります。DTVは居住権ではなく、永住権や市民権への道筋を提供するものではありません。
180日を超えて滞在すればタイの税務居住者として扱われ、海外から送金した収入に課税される可能性が出てきます。
2026年からはTDAC(タイ・デジタル・アライバル・カード)という新しい入国管理システムが導入され、銀行の入出金記録とビザ種別を照合する仕組みも稼働し始めました。
「とりあえずタイで働く」という気軽さが、以前ほどは通用しなくなりつつあるのも事実で、また、ハードルの低さからやや問題があると思われる人たちも、タイに拠点を移している様子も伺えます。
特にドバイやシンガポールに諸事情で滞在できなくなった人が多数います。
それでも、タイが描いている未来像は明確です。
安価な観光地としての魅力を維持しながら、世界中のリモートワーカーと起業家、クリエイターを「半定住」させ、彼らが落とす中長期的な消費と、持ち込むスキルや人的ネットワークによって、国の産業構造そのものをアップグレードしていく。
今週開催されているソンクラーンを世界規模のフェスティバルに育て上げ、ムエタイや瞑想、料理教室を「ソフトパワー活動」としてビザ制度に組み込む発想は、その戦略の見事な現れです。
観光戦略も時代とともに変化しなければ、観光大国の称号を維持できません。
この柔軟さが、タイの魅力そのものを表しているのだろうと、バンコクの雑踏のなかで頭から水を浴びせられながら考える今週です。
謹賀新年。
今年は仏暦で、2569年です!
(これはメルマガ『高城未来研究所「Future Report」Vol.774』の冒頭部分です)
高城未来研究所「Future Report」
高城未来研究所は、近未来を読み解く総合研究所です。実際に海外を飛び回って現場を見てまわる僕を中心に、世界情勢や経済だけではなく、移住や海外就職のプロフェッショナルなど、多岐にわたる多くの研究員が、企業と個人を顧客に未来を個別にコンサルティングをしていきます。毎週お届けする「FutureReport」は、この研究所の定期レポートで、今後世界はどのように変わっていくのか、そして、何に気をつけ、何をしなくてはいけないのか、をマスでは発言できない私見と俯瞰的視座をあわせてお届けします。
高城剛 プロフィール
1964年葛飾柴又生まれ。日大芸術学部在学中に「東京国際ビデオビエンナーレ」グランプリ受賞後、メディアを超えて横断的に活動。 著書に『ヤバいぜっ! デジタル日本』(集英社)、『「ひきこもり国家」日本』(宝島社)、『オーガニック革命』(集英社)、『私の名前は高城剛。住所不定、職業不明。』(マガジンハウス)などがある。 自身も数多くのメディアに登場し、NTT、パナソニック、プレイステーション、ヴァージン・アトランティックなどの広告に出演。 総務省情報通信審議会専門委員など公職歴任。 2008年より、拠点を欧州へ移し活動。 現在、コミュニケーション戦略と次世代テクノロジーを専門に、創造産業全般にわたって活躍。ファッションTVシニア・クリエイティブ・ディレクターも務めている。 最新刊は『時代を生きる力』(マガジンハウス)を発売。
高城未来研究所「Future Report」編集部